龍馬の恋人とされる女性には

龍馬の恋人とされる女性には平井加尾、千葉佐那そして妻の楢崎龍がいる。

平井加尾
龍馬の初恋の人とされる。土佐勤王党幹部・平井収二郎の妹で、安政6年(1859年)頃から公卿・三条公睦に嫁いだ山内容堂の妹・恒姫の侍女になっていた。龍馬が京都の加尾宛てに脱藩用意の品(または男装用意の品)の調達を依頼する文久元年(1861年)9月13日付の書簡が残っている。加尾はこれらの品を用意したが、結局この時は龍馬は脱藩を決行せず、翌文久2年(1862年)3月に沢村惣之丞とともに脱藩した。龍馬の脱藩後、兄・収二郎から「龍馬からの相談には迂闊に乗るな」と咎められている。
文久3年(1863年)6月に平井収二郎が切腹させられると龍馬は6月29日付の姉・乙女宛ての手紙で「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」と加尾を案じるている。加尾は後に土佐藩士・西山志澄に嫁ぎ、明治42年(1909年)に72歳で死去した。

千葉佐那
江戸遊学中に師事した千葉定吉の娘で龍馬と恋仲になり、佐那の後年の回顧によると安政5年頃に婚約したという。龍馬は姉・乙女宛ての手紙で「(佐那は)今年26歳で、馬によく乗り、剣もよほど強く、長刀もできて、力は並の男よりも強く、顔は平井(加尾)よりもよい」と評している。定吉が結婚のために坂本家の紋付を仕立てたが、龍馬の帰国後は疎遠になってしまった。後に龍馬の死を知らされるとこの片袖を形見として佐那は生涯独身を通し、明治29年(1896年)に59歳で死去した。墓碑には「坂本龍馬室」と刻まれている。一方、明治7年に元鳥取藩士山口菊次郎と一時結婚していたとの説もある。

楢崎龍
京都の医師の長女で、父が死に一家は困窮していた。龍馬はお龍を元治元年(1864年)頃に見初め、同年8月頃に祝言を挙げた。龍馬はお龍の境遇と妹二人を人買いから取り返した武勇談を家族宛ての手紙に詳しく書き送り、彼女を「まことにおもしろき女」と評している。各地を奔走していた龍馬は、お龍を懇意にしていた伏見寺田屋のお登勢に預けた。

慶応2年(1866年)1月23日の寺田屋遭難の際に、お龍の機転により危機を逃れた逸話は有名で、龍馬は姉・乙女宛ての手紙で「このお龍がいたからこそ、龍馬の命は助かりました」と述べている。寺田屋遭難後の同年3月から6月、龍馬はお龍を伴って薩摩へ下り、療養のために各地の温泉を巡った。龍馬は日本最初の新婚旅行といわれる、この旅行の様子を詳細に姉・乙女に報告している。

その後、お龍は海援隊の拠点がある長崎、下関で過ごし、慶応3年(1867年)12月に龍馬の訃報に接した。お龍は龍馬の未亡人として土佐の坂本家に入ったが、義兄夫婦と反りが合わずに3ヵ月ほどで土佐を出ている。京都、東京、神奈川と縁者を頼って居を移し、明治8年(1875年)、35歳のときに大道商人・西村松兵衛と再婚した。明治の中頃以降に龍馬が世間の注目を集めるようになると取材に応じて龍馬についての回顧談を残した。明治39年(1906年)に66歳で死去。墓碑には夫の西村松兵衛の名ではなく「贈正四位阪本ママ龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている。

その他、龍馬の恋人としては、高知の漢方医の娘・お徳や公家の腰元・お蝶、長崎の芸妓・お元、京都の旅宿の娘・お国などの名が伝わるが詳細真偽は不明である。

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